メディアアート生活

美術館に作品を見に行かなくても、町中に作品は溢れている。話しかければその人の宇宙が始まる。

みなおし。

恋愛になぞらえて文章を書くのは、

それが人生をたとえるのにうってつけだから。


人生になぞらえて文章を書くのは、

それが恋愛をたとえるのにうってつけだから。


端的にいうと、あまのじゃくなんです。きっと。


色んな感情、ひらりと、かわしてたら、

どれが本当とか、どれが客観とか、

もうわからんわ。


それすら、どうでもいいのだ。

どうやらちゃんと感じてはいるけれど、

ひねくれた伝達経路をとおるらしい。


とっても前向きな感情です。

背景には、深夜PCの明かりだけが光る部屋、ではなく、

春の光降り注ぐ真昼の公園、を用意していただきたい。


広場の中央で、空に向かって、両手を広げて、るイメージで。なう。



きっと昔は、んなこと人に言うもんじゃないって

皆さんおっしゃってたでしょう。


いまでもそうか。


一般市民の個人ブログで、ネガティブな内容をさらけ出すと、

批判されたりしますもの。

批判する気持ちもわかりますもの。


見たくないわな。人の恨み節、自己陶酔的な自己嫌悪。


きっと私の母は、「そんなことこっそり日記に書いて、机の引き出しにしまっときなさい。人様に見せるもんじゃない。」

って、言うだろう。


私の好きな音楽家の方も、

「誰も彼も発信しすぎだ。昔はスターはみんな謎めいててよかった。」

と、ポロリともらしてらっしゃったけど、

その気持ちもわかりますもの。


食事なう。


とか、たしかに意味は無いもんな。

むしろ、その人は「twitterなう」だろうよ、今。


でも、どっかで誰かが生活してるなー。

としみじみ思ってしまって、その気持ちに救われることもあるのです。


悪くないことだと思うんだ。共感。共有。



無責任な発信。そして、少しの期待。

それが、どこかで誰かの何かになることは、悪いことじゃないと思う。


同時にちょっと調子のいい、人への頼り方だとも思うけど。


このブログもメディアアート生活ですから。

緋翠零という物体を、メディア(媒体)として利用してもらいたいのです。


見てきたもの、感じたこと、表現してみた、

毎日を綴っております。


やけに、「私は」「自分は」と、一人で喋っております。

人は、自分を客観的に見ようとする時、なにかとの「差」で、

自分を把握しようと試みたりします。


私は嘘つきな正直者ですので、

言いたいことをリアルタイムで喋り続けます。

あなたと似ていたり、違ったりすると思いますが、

その共有や差を楽しんでいただきたい。


また、へんてこなものを見る視点で楽しんでいただいても構いません。


しかし、多少ひねくれているので、

直情的そうな文、書いてる癖に、

意外と核心は別のところにあったりしますが、

何かかけらでも、地球上の誰かに届いていれば幸いです。



とまあ、ブログの解説になってしまいましたが、

いい機会ですので、よかったよかった。



本当は、違うこと考えてて書き始めたんだけどね。

いいんだ。みなおしすると、迷っちゃうタイプだから。

あ、今ちょっと風邪ひいてます。