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メディアアート生活

美術館に作品を見に行かなくても、町中に作品は溢れている。話しかければその人の宇宙が始まる。

わたしが生きている今日は昨日死んだ誰かが生きたかった明日。

きのう

前から行きたかった場所に行った。
行ってよかったと思う。
行けてよかったと、

切に思う。

・考え方によっては大層不謹慎。
惨事のあった場所へ、日常を平気な面持ちで過不足なく生きている奴が、

ふらり

見学しにいくなんて
体裁=ただの野次馬だとは重々承知。

それでも、自分の目で見てみたかった。
自分の足で立って、空気に触れてみたかった。
量産ドラマの、メソッド通り。意図的な感動シーンに、
触発されたかのようなそんな月並みな感傷ときっと同種の感情の発露で。




失ってから大切さに気づくなんて、ちっとも美談じゃない。
期限を与えられて初めて尊さを実感するなんて、感動なんて類いに入れられたもんじゃない。

それは悔しくて、悲しすぎて、発散しようがないなにかで。
暴力をもって何かに吐き散らして、
周りも粉々になって、
自分も粉々にしてみて、
物理的な痛みをもって、与えられた残酷を量ろうとしても、
全く相当しない。何の意味もない。
敵でもいれば楽なのに。
憎むべき相手もいないから。
しゃがみこんで、
足下に散らばった破片を拾い上げて、
なんで、手を離してしまったんだろうかねぇと、
10秒前の自分に聞いてみても、
喪失は、取り消せない。

あら、残念。もうそれでは花は活けられませんね。
それは、ただの「花瓶だったもの」です。



喪失は、取り消せない。
だってもう、ないんだもん。
ああもう
ああもう。

ああ。

もう。



今日「さようなら」を言った相手に、明日また「こんにちは」を言えることが、
どれだけ素敵なことか。

別に、ことさら毎日誰かに感謝したり、
ピアノのイントロで自分から感傷的な気分にもっていったり、
小学生で習う常用漢字1006字と、最低限の日常会話言語で、
疎ましいくらいありがとうを繰り返したい訳じゃないんだけど。
ってか正直、ガストも吉野家もJ-popを流さないでほしいんだけど。
だったら、もうちょい高い店行けって話なんだけど、
雑念のせいで話がそれたけれど、

人間は永遠じゃないから、この人生のタイムライン上で巡り会ったものは全部、
いつかはさよならする日が来る。
それは、そういうルール。

There is no exceptions
大変申し訳ございません。

一度見つけたら、手を離してはいけないよ。
どこかで強制的に終わりがくるんだから。
それまでは惜しみなく、調子に乗って、謳歌しやがれ。
巡り会えた人と、綴る時間を。





わたしが生きている「今日」は、昨日死んだ誰かが生きたかった「明日」だ。
有り難がってる暇があったら、真剣に生きなさい。
強制終了された人の悔しさと悲しさが見張るプレッシャーの中で、
烏滸がましくも、どうしたら今日を楽しく過ごせるかなんていう悩みを続けるべきなんだ。

逝ってしまうまで。




萱浜にて。君と手をつなぎながらそんなことを考えていた。

ヒスイレイ