メディアアート生活

美術館に作品を見に行かなくても、町中に作品は溢れている。話しかければその人の宇宙が始まる。

僕らがしているのは、戯れか進化か(2)

おっきい体で何をしようか。
と前回書いた。 

hisui0.hatenablog.com

 

私は、想像と創造、

イマジネーションとクリエイションによって、世界をつくること。

それが、おっきい体がすることだと思う。

 

『人は人間にしかできない、クリエイティブなことをしよう』

人工知能と対称的に人間の存在意義を語る時、よくこの文言を目にする。

でも「具体的にはどんなこと?」まで含めて語る記事は少ない。

 

クリエイティブ。それ以外の仕事はAIに取って代わられる。

この文言が、人間に対する危機意識と不安を喚起するのは、

「クリエイティブ」という言葉の意味するイメージが

掴みどころがないところに問題があると思うんだ。

 

クリエイティブっていうとどうしても

デザイナーとか、ものづくりする人とか、スティーブジョブスとか、

才能とか、ひらめき、アイディア、創作っていうイメージが強いように感じる。

 

たとえば、クリエイティブとマニュアル対応はつながりづらい。

そこに想像の余地がないように感じるからだ。

 

クリエイティブは、今ある機能や事実をそのまま受け止めるのではなく

自由な発想で、視点を変えたり、可能性を広げて、

何か新しいものが生まれそうなそんな期待をさせる言葉だ。

 

クリエイティブ、創造性。

それは、マニュアルや暗記では太刀打ちできない世界。

自由な発想、工夫、イメージ力。

 

そんなものでどう仕事になるのか、そんなもの自分に備わっているのか。

そのあたりの道筋がないから、不安になって、

『雇用がなくなる!!』も怖いし、

『むしろ人間しかできない仕事が増える!!』もなんじゃそれって怖くなる。

 

クリエイティブになるためには、

ただ人と出会って、人の話が聞けるようになればいいだけだと私は思うんだけど、

それを話すために、「これからの時代どんな人生をつくっていったらいいんだろう。」

っていう話から始めるね。

 

さて、どんな世界を創ろうか。

 

これを考える時、

個としての自分の視点と、

おっきい体である自分の視点と、
そこから外に出て、人間を材料として見る視点と、

その3種類の観点を自由に移動して、
世界をどう構築していくのか考えようと最近思っている。

 


個としての自分を考える。

個としての自分の優位性とは何か。

 

これは身体性だと思う。

一旦、人間を装置だと思ってみてみる。

5つの感覚器官から入力された情報を、
脳で処理して、

思考・感情・感覚・行動にフィードバックし、

現実画面を生成する。

 

パソコン環境で考えた時だと、
カメラ(5感覚)→PC(脳)→プロジェクター(5感覚)→映像
(その人の現実)

が身体の裏の顔。

自分と自分が見ている世界。

 

表の顔はこの肉体。触れるこの自分。

 

身体は不自由を楽しむためにある。
制限されることによって、ゲームはおもしろくなる。
ルールのないゲームはゲームとして成立しない。

 

ゲームとはなにか。
ゲームとは人生だ。

 

5感覚の認識範囲は有限。
脳は、部分だけを取り、違いだけを取り、過去とつなげ判断し、

有限化してものごとを認識する。

 

思ったことは全部実現するはずなのに、
思った瞬間実現しないのも、この制限のゲームを楽しむため。

 

実現のためには、「やる」ことが必要になる。
イメージの世界=現実世界ではなく、
行動することによって、表出することによって、
はじめて現実と言える。という制限があり、
そのために時間という舞台の奥行きと幅を楽しみ、
できてない今と、できている未来を点と点で結び、
時間を経過させて、変化成長を楽しむ。

この条件下で、

個の自分を最大限楽しむには、

どの部分の機能に着目したらいい?

 

わたしは出会いと感情の二つを優先させる。

 

体がなければ出会えない。
ネット上で、SNSで出会うのとはまた違う。物理的な接触、邂逅。

 

身体の情報量は計り知れない。

よくオーラとか波動とか見える人いるけど、

あいにく私はそういった能力については皆無でして、

それでも「雰囲気」ならわかる。


いるだけで、その人の在り方から発信される圧倒的な情報量。
人生かけて積み重ねてきたものの一断面、

「今」に結集された作品が目の前に現れる。

物質と物質として出会える。

これが身体の一つの楽しみ方。

 

そして、感情。

結局人間を動かしているのは感情や感覚。

 

なんとなく嫌。よくわからないけど好き。

そういった感情感覚に従って人は行動する。

 

そんなのには惑わされないぞって、切っちゃうこともできるけど、
情報を感情感覚で味わうことができるのが、身体の優位性だと思う

いわゆるエモいというやつ。

正の感情でも、負の感情でもいい。
そもそも+‐は人間が相対世界の中で生み出した概念であって、

絶対的なものではない。

 

負の感情は、存在危機を警告するサインという意味では、

よくないものと定義されているだけ。

 

存在の至上命令は、存在すること。
存在できない条件において、脳は全宇宙歴史の智慧の結晶として、

身体に注意喚起のための信号を送る。

 

この条件は危ないぞ、至急改善せよ。存在を続行せよと。

そういった賢い脳が指令する脳内物質の分泌が感覚であり感情。

 

そこまで、理解できれば、
感情感覚は、一種のエンターテイメントになる。

 

機能は最大限理解して活用したい派なので、
感情は+100と-100どちらも感じたい。

 

どうやって?

 

入り込めばいい。

目をそらさず、そっとスマートに蓋をせず、
あーーーー!!!悔しいんだけど。
やばーい!!楽しい!

こんな風に。

 

馬鹿みたい?

なんでバカっぽいんだろうね。

馬鹿ってなんだろうね。

そこを議論し始めると長くなるので
\(・_\)ソノハナシハ (/_・)/コッチニオイトイテ

 

止めてるから感じないんだよ。
ストッパー外して、それを身体で表現する習慣さえ付けちゃえば、
感じ切れる。

 

感情エネルギーは発生した時に出してしまえば、
その場で消化されるから、ため込むよりは健康にもいい。

 

氷は全て、熱を帯びて蒸発しました。状態。
氷だらけなのが、現代人。
そのままおいとくから、麻痺して感覚が正常に働かなくなる。

もっと感じよう。

 

総括すると、
出会って、感情感じる。

 

それが個の自分の有効活用方法。

 

そのためには、どうしたらいいか。

そこで必要なのが、「仕事」と「ストーリー&キャラクター設定」

そう思うんだよね。

 

→ 次回、どんな主人公となって人生を冒険するか。(3)に続く。

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